闇もなほ蛍のおほく飛びちがひたる   
                                              

                                            大阪三雄            


● 7月のある暑い日、オハイオ州立大学準教授福森氏の授業を受けた。
 演題は「アメリカの大学教育における日本の古典文学」であった。
彼女の流暢な英語と幅広い研究姿勢に圧倒された。実のところ2,3割しか理解できなかった。自分の英語力を思い知らされた次第である。70歳から始めた英語、こんなものかと絶望の気持ちに追いやられた。しかしその内容は、大変興味深いものだった。
 やがて映し出された「Appreciation for close relationship between nature and humans」に目が止まった。その瞬間、やはりそうなんだと強く思った。
 その後も脳裏から離れない。「心に浮かぶよしなしごとを書きつづる」
そんな思いで、一文を寄せることにした。


● 外国の方々に、宇治の歴史と文化の紹介ボランテアを願っている私にとって、「日本の文化とは」はとりわけ大事なテ−マである。
 そんなわけで、その「自然と人間」の切り口から、日本の文化がカルティベイトされてきた基本のカタチを考えてみたい。
  そこで最初「文化とは何か」について改めて考えてみた。
 人間が長い歴史のなかで、自然とかかわって、その中で物質的にも、
精神的にも様々なものを獲得してきた。そして暮らしを形作ってきたのである。すなわち食の生活、衣の生活、技術、知識、芸術、道徳、宗教、政治等々である。手短に言えば、文化とは人間の生活のスタイル、生活の内容である。
 さて、「自然と人間の関係」をみるとき、ヨ−ロッパ ( 一般的に西ヨ−ロッパ )と日本とを比較してみると大変興味深いことがあることに気がつく。
 すなわち、ヨ−ロッパでは、自然は人間に役立つものとして捉え、人間が自然を支配して、人間の暮らしに取り入れるものだと考えた。そこにサイエンスが生まれたとも言える。それに対して日本では、農耕生活の中で、まず自然に対して「恐れ」と「敬意」を抱いた。そして人間は自然に生かされ自然の一部分として考えるようになった。言い換えれば生活の一つ一つのなかに自然が存在すると考えた。日本人は、自然を人間に対立するもの、利用するものとは見ていない。ヨ−ロッパの自然が人間に従順であるとするならば、日本では人間が自然に従順であらねばならないと考えたと言える。
 なんと大きな違いではないか。そこで、そうした違いの中での「文化の違い」をすこし観察してみることにした。


● 道元のうたに「春は梅の梢に在りて、雪を帯びて寒し」がある。
季節は冬。しかし梅の梢にすでに春を感じる。鳥の気配で感じたのか、
雪の色や形で感じたのか。日本人は、眼で、耳で、鼻で、肌で、ときには舌で、季節や季節の移り変わりを感じる。うたのなかに作者の厳しくて、優しい心が表現されている。まさにこの詩は、心において歌われているのである。

次に清少納言の「枕草子」を見てみよう。「夏は夜。月のころはさらなり。闇もなほ蛍のおほく飛びちがひたる。また、一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし」懐かしく思い出される文章である。
日本人の四季は、梅の蕾がほころび、鶯が鳴くことによって、蛍がとび、
雁が渡り、虫が鳴き、紅葉が散ることによって、具体的に春夏秋冬である。
日本人はその心の中に、この質的変化を「あわれ」と感じるのであろう。
また井上 靖氏は「心の文化」の中で、次のように述べている。
「万葉集」は、死者を弔う歌、恋の歌、あるいは旅の歌で、いつでも自分のを歌っている。絵画についても、例えば鳥を描いても、いかに自分がその鳥どのように見ているかという、その自分の見た鳥を描いている。鳥がそこに本当にいるように写実的には取り扱っていない。いつでも心の問題である。 


● このようにして日本の古典のなかに「日本の文化」の極めて本質的とも言える部分を見ることが出来る。それらはいずれも、「自然と人間の関係」を正しく認識することから始まると言える。歴史と気候風土そしてそれに伴う厳しい農耕生活―それらが日本人の文化を育んできたし、感性豊かな日本人の心を創造してきたのである。(アメリカの大学の学生が、そのことをどう理解しているのであろうか。違いを違いとして受け止めているのだろうか。
自分の英語力のせいで、十分に聞き取れなかったのが残念である。)


● 古典の世界から現代に話題を変えてみよう。
  昨年、NHKの対談で、シンクロナイズスイミングのコ−チをなさっていた
井村さんのお話を聞いた。示唆に富んだ話であった。
あの脚の長くしなやかな強敵ロシアにはどうしても勝てない。工夫の結果、脚の動きの速さ( 技術 )で挑戦。そしてそれまでの常識をやぶる夜叉表現。そしてやがて短い脚でも、互いの脚からでる美しい気配を聴衆に感じさせる−日本人の文化的表現に到達したという。
 日本人の独自性を活かす。日本人が世界の中でどう生きていくかを示唆した話であった。


● 古典から現代まで―「日本の文化とは」を求めてきた。その源流を訪ねて「日本の民族性」「日本文化の独自性」を「自然と人間の関係」から考察してきたが、他のアプロ−チの方法もあろうと思料する。 

  この間、あの黄檗宗大本山萬福寺で蛍放生会が催された。
放生池に放たれる蛍の美しい光を通して、命の尊さと自然を守ることの大切さを訴えてのことと聞く。千年前も、現代も蛍は美しく光を放っている。

    
生きてよし はててもよしや 夢 蛍  

                                 みつお

          


                                    
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